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会報 No.286


始めであり
      終わりである方に
           祈りつつ

出エジブト17章11節
禿 準一


 私たちの生田教会の歴史五〇年は、必ずしも長くありません。近隣の教会や知人の教会でも、百年あるいは、七、八〇年の歴史をもつ教会があり、いずれも教会誌をいただいていますが、いただくと、私は一気に読み通すのです。教会の歴史は表面的には、その長さや短さの違いは分かりません。むしろ長短はどうあれ、共通点を多く発見します。同じように礼拝が営まれ、さまざまな集会に老若男女が集い、教会の使命であるその他のいろいろな働きがなされています。文章や写真を見ると、たとえその人たちを個人的に知らなくとも、親しさがわいてきます。キリスト者としての共通の思いがあるからでしょう。他の教会の教会誌なのに、そこに自分の教会を見る思いがします。実際ほとんど私たちの五〇年と同じことが書かれています。だからなんだ、教会は代わり映えのしないところ、時代に遅れているのだ等と不遜な言葉を吐くことは決してできません。むしろ驚きと敬意をもちます。ある場合は、条件が決して整っているわけでもない所で働きを続けています。歴史の変化、時代の風潮、環境の変化、構成する人間が違っても、「変わるべきことは変え、変わらないことは変えない」勇気をもって、教会は存続し続けます。

 そしてその中心にはイエス・キリストがいらっしゃることです。私たちが信じ、支えられ、永遠の命を与えられ、どんなときにも希望をもって、歩むことのできる「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ一三‐八)をまことに実感します。そして、その永遠に変わらない方を仰いで、「主は、み心なしたまわん、そなえたもう、主の道を踏みて行かん、ひと筋に」(讃美歌463)と決心する信徒の群れであることも共通しています。

 ところで、私たち一人ひとりは、主イエスが導く教会の長い歴史の一点に召されてその使命を担うことになります。私は教会を思うとき、神に召され、神の民としての共同体、群れとなり、奴隷の地から解放され、約束の地をめざす旅を続ける出エジプトの民と重なります。教会の群れは、イエス・キリストによって救いの恵みにあずかった一人ひとりが、その生涯をイエス・キリストと共に歩み、その道なき道をも臆することなく主に導かれて日々を生き、終未の救いの完成の時まで、信仰の旅を続ける群れです。私たち生田教会の一人ひとりもそのようにして歩んできました。最近思うことに牧師としての私は、モーセに学ぶべきだと思います。決して時代錯誤の教職中心主義を言っているのではありません。いわば群れの指導者としての原点の検証です。牧師は召命観をきちっと保つ、そしてモーセ個人の欠けを兄弟アロンやフルや、ヨシュアやカレブが支えます。荒野を前進するとき、さまざまな賜物を持つものが群れの中で人々を支えます。旧約聖書の出エジプト記や申命記を読むと良くわかります。

 イスラエルが最初に出会った強敵アマレク人、この試練でも神はイスラエルを導き、ついに戦いに勝たせるが、ここでは、「モーセが手をあげている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった」(出エジプト一七‐一一)という。これは祈りのことです。しかもモーセが祈りにつかれるとアロンとフルが両脇に立って、彼の手を支えるのです。戦いに勝った後、群れは祭壇を築いて「主はわが旗」と名づけたといいます。旗は指導者のいるところに掲げられています。「主側が旗」であって歴史における真実の指導者は神であるのです。モーセはその神に向かって手をあげる者に過ぎないのです。究極の主体は歴史を導く神なのです。

 生田教会のこれからの歴史も、この神への信頼をし続けて行くこと以外の道はありません。共に祈りの手をあげていきましよう。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。〔私はアルファであり、オメガである〕(黙示一‐八)」。このアルファは初めのことで源、起源ということを意味し、オメガは最後を意味しますが、それは完成、達成をも意味します。教会の歴史の完成者はイエス・キリストです。歴史の主の導きに委ねる事が、何よりも先行する生田教会でありたいと思います。