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会報 No.288


墓は空っぽだった

ヨハネによる福音書 19章38〜20章18
禿 準一


 主イエスは確かに十字架において亡くなりました。死んだのです。ですから墓に葬られました。それをしたのは、生まれ変わること、神の国に入るためにはどうすれば良いかと尋ねたニコデモや、それまでイエスの弟子である事を隠していたアリマタヤのヨセフによって執り行われました。この十九章の終わりの言葉「そこにイエスを収めた」(四十二)は、一人の人の死のプロセスの最初の出来事です。これまで従ってきた弟子たちにとっては、大変なショックだったでしょう。自分たちの存在をかけてもとの職業や生活を捨てて従っていたのですから。その師、主が、反逆罪や極悪人のつけられる十字架刑という極刑によって死刑になったのです。その思いの悲しみ、不安、挫折感の入り混じった感情は、今の私たちには分からないものてす。

 「生と死を考える会」のデーケン神父の「伴侶先だれた時」(春秋社)に妻に先立たれた男性の言葉が印象的です。「大学時代のテニス部の先輩と後輩で結婚して、二人の人生の計画を三分割して、初めの二五歳までは勉強、その後六十歳までは社会のため、それが過ぎたら、二人で生きた人生を振り返り、自分たちの青春と人生に悔いのないことを確認しつつ、今度は二人だけの人生を歩もうと人生設計を立てて楽しみにしていた。しかし、そのときはもうこない」。これは四十代半ばの妻を亡くされた人の言葉です。心が空っぽになったと言います。普通の人の死でさえこうなのですから。

 イエスの死と同じくはできないとしても、志半ばで死ぬということでは共通の面があります。「神の国は近づいた。福音を信じなさい」「私に従ってきなさい」「私に従ってくる者は闇の中を歩かない」なとどと言って、使命に邁進したイエスを思うと、明らかに挫折に思えます。核になる十二の弟子の中から裏切りが起こり、第一の弟子のペトロも逃げ出してしまいます。そしてイエスが十字架につけられたときには弟子たちの影すら見えません。イエスの亡がらを引き取り、葬りをしたのは彼らではなく、ニコデモやアリマタヤのヨセフ、女性たちでした。弟子たちの失望や混乱が推測できます。

 しかし、十九章の終わり、「そこにイエスを収めた」(四十二)は、丁度新しい部屋に入るドアであり、本の次のまったく新しい展開が始まるペ−ジなのです。「失望、挫折、悲しみ、不安」などが「希望、秩序、喜び、平和」に移るのです。「週の初めの日、朝早く」(十九章1)は、まさに象徴的な表現で、それまでの夜の闇が消えて、朝の光が昇り、あたりを照らします。そのように復活の出来事が起こります。マグダヤのマリアの「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません」(2)の「置かれる」も先の「収める」も死者に対する人間のあり方を良く表しています。愛する者の死と言えども人間の最後に対する人間の営みは「墓に収め、置く」これしかできません。しかし神は、イエスを「置かれた」状態から「立ち上がらせ」たのです。だから墓は空っぽだったのです。死は人の生活を無にし、すべてを「空っぽ」にします。だから死でおわりだ、人間の生は結局無に等しいと虚無的になるのではなく、主イエスは甦って墓は空っぽだったのです。

 遺品は「あま布」でした。遺品で思い出にこだわって、ほんの少しの慰めを受けることはできたでしょうが、絶対的な慰めにも力にもなりません。あるいはマリアがそうであったように、主の体を探して「どこに行ったのか」(二章、十三章、十五章)と死体に拘ることもです。天使は「なぜ生きている方を死者の中に探すのか」(け二十四章五)と、心の新しいドアを開けるように、神の業に目を注ぐことを求めます。死体や遺品にこだわるのは、挫折や、慰めにならない慰めをさがすことになり、結局あきらめて泣かざるを得ないのです。 まさにそのように泣いているマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを探しているのか」(十五)と復活の主ご自身が語りかけてくれました。墓は空っぽですが、心は燃え上がる呼びかけと、復活の出来事によって、も
う泣く必要はないのです。
 周囲の厳格な土曜安息日をやぶるエネルギーは、墓がからっぽになった「週の初めの日」に復活した主イエスの出来事があったからなのです。この根拠に心を注ぎましょう。

 「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初恵となられた」(第一コリント15章20)
 「主は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(同15章54)